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非理法権天 「敷島通信」山下俊輔(山下しゅんすけ) 起きる会 代表

敬神尊皇 七生報國 非理法権天       身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

二・二六決起(昭和11年2月26日)
坂井直陸軍中尉(同年7月12日銃殺刑死)の墓参、
青年日本の歌奉唱
令和5年2月26日
三重県四日市市桜町228-4(の北がお墓)


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神武天皇即位紀元 皇紀2683年
令和5年4月9日執行日
愛知県議会議員一般選挙 名古屋市南区選挙区 立候補予定者
山下俊輔(山下しゅんすけ)

ツイッター https://twitter.com/yamap888
website https://yamashitashunsuke.wixsite.com/-site
 

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2月26日は、昭和11年2月26日に大日本帝國陸軍将校、が、国を憂ひて決起されました。
坂井直陸軍中尉の御魂靖駆らんことをお祈り申し上げます。

二・二六決起(昭和11年2月26日)
坂井直(さかい なおし)陸軍中尉
陸軍士官学校44期
三重県四日市市桜町出身
昭和11年7月12日07:54銃殺刑死
令和5年2月26日
坂井直陸軍中尉の墓参
青年日本の歌 奉唱
大叔父(大東亜聖戦て戦死した祖父の弟):陸軍士官学校43期、坂井直陸軍中尉と三重県北勢地区の同郷
https://twitter.com/yamap888/status/1629840803295293440?s=20

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愛知県知事選挙の開票結果が出ました。123,940票でした(5.8%)。投票頂きました皆様方におかれましては誠に有難うございます。応援頂きました皆様方におかれましては誠に有難うございます。今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。愛知県、我が国日本を護り再建して参りましょう。頑張ります。
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政見放送、経歴放送
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政見放送 NHK 字幕付き


政見放送 NHK収録


政見放送 CBC収録



愛知県知事選挙 第一声 山下しゅんすけ 愛知県芸術文化センター前にて 令和5年1月19日


【愛知県知事選2023】 山下 俊輔 候補 過去2番目の立候補者数…候補者の「第一声」


愛知県知事選挙 第一声
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名古屋駅前街宣
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愛知県知事選挙!山下しゅんすけ一択!中共色に染まってきた愛知県を洗濯する男!#愛知県 #愛知県知事


ヒールリフト
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令和5年 愛知県知事選挙立候補記者会見 山下しゅんすけ(山下俊輔) 令和4年10月13日


令和5年 愛知県知事選挙立候補記者会見 山下しゅんすけ(山下俊輔) 令和4年10月13日 読売新聞取材会見


愛知県知事選挙の公約発表の記者会見(令和4年12月21日 県政記者クラブ)


愛知県知事選挙の公約「大愛知構想」発表の記者会見
令和4年12月21日 県政記者クラブ(令和5年 2023 愛知県知事選挙)
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大愛知構想(骨子案)
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愛知県の係る政策



山下俊輔(山下しゅんすけ)@愛知県知事選挙立候補予定者
@yamap888
🇯🇵無所属。#県民と起きる会 代表。南区市議選元候補者。男系男子皇統護持。尖閣・北海道死守。拉致被害者奪還。愛知県ヘイトスピーチ条例廃止。移民政策反対。南区,名古屋市,愛知県,日本,國體護持 #国士舘 #山下村塾 web https://yamashitashunsuke.wixsite.com/-site
日本 愛知 名古屋南区Nagoya,Aichi,JAPAN hirihoukenten11111.blog.fc2.com誕生日: 1962年4月2日
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第26回参議院議員通常選挙 愛知県選挙区 記事
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戸籍開示
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三重県立四日市南高校卒
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国士舘大学政経学部一部 経営学科4年生9月 中途退学
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勇気ある発言者(あいちトリエンナーレ2019国際フォーラム)
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YouTube
山下俊輔(山下しゅんすけ)dainipponkoukoku
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山下俊輔(山下しゅんすけ) fujisansantyou
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れ い な@rere_083
推せる
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第26回参議院議員通常選挙 愛知県選挙区 選挙公報
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第26回参議院議員通常選挙 愛知県選挙区 政見放送


私は日本人です
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怒涛の一撃、会場の空気が変わる瞬間 勇気ある発言者 あいちトリエンナーレ


勇気ある発言者
山下俊輔(山下しゅんすけ)
あいちトリエンナーレ2019 国際フォーラム
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ひとりごと「【参院選で推せる人物】参院選 愛知選挙区に無所属で出馬の山下俊輔氏に保守層から熱い視線」
https://youtu.be/OTV09H6T_UQ



書籍
「日本国再建草案: 今の日本がわかる!」
著者 山下俊輔
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楯の会 森田必勝烈士 祥月命日
皇紀2682年・令和4年11月25日 没後52年 墓参
「青年日本の歌」奉唱 「三島由紀夫烈士 檄文」奉読
墓所: 三重県四日市市大治田町3-5-54付近


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        鎮魂  七生報國

三島 森田  
    楯の会 森田必勝烈士           楯の会 三島由紀夫烈士

楯の会 三島由紀夫烈士
昭和45年(1970年)11月25日 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にて割腹自決 享年45


楯の会 森田必勝烈士
昭和45年(1970年)11月25日 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にて
三島由紀夫烈士を介錯の後、割腹自決 享年25



本年で10年目となりますところの森田必勝烈士の祥月命日11月25日に墓参をさせて頂きました。

森田必勝烈士が自決されてから、52年の月日が流れました。

本年は全くの晴天でした。初めて墓参させて頂いた10年前の祥月命日の日は大雨が降ってました。

森田必勝烈士の墓前で、「青年日本の歌」の奉唱、「三島由紀夫烈士の檄」の奉読をさせて頂きました。

森田必勝烈士の墓参をされている方がいらっしゃったので、声を掛けさせて頂きました。色々とお話しをさせて頂き誠に有難うございました。よろしくお願い申し上げます。

私は國士舘大学在学時、少林寺拳法部でした。同大同部の先輩に楯の会5期生班長の福田敏夫先輩がいらっしゃいます。

國士舘大学少林寺拳法部1年生時に、某先輩から福田先輩という楯の会の先輩がいらっしゃると聞いていましたが、お目に掛かったことはことはありませんでした。

昨年の森田必勝烈士の墓前での野分祭で、同祭におられた村田春樹氏に福田敏夫先輩のことを言うと私のことを言っておくと言われたところ、福田敏夫先輩から後、電話が掛かってきました。

大分前に三重県の某所の居酒屋で同窓の某氏と酒を飲んでいると。自分が座っているカウンター席の隣が、たまたま森田必勝烈士の彼女だったという方でした。その方は森田必勝烈士のことを「まかやん」と言ってました。「森田君はまかやんと呼ばれていた」と言っていました。語源は「森田必勝 もりた まさかつ」から「まかやん」となったと推測します。

以前、墓参をさせて頂いていると森田必勝烈士のお兄様の森田治氏にお会いしました。森田治氏は旧制富田中学(現在、三重県立四日市高校)と言われていたので、「私の祖父が旧制富田中学で先生をしていました」と言うと「知っている。絵と数学の先生をしていた」と言われていました。私は祖父を見たことはありませんが、森田必勝烈士のお兄様が祖父を知っているということに感慨深く思いました。祖父は先の大東亜聖戦インパール作戦に参戦の後、イラワジ川の畔で爆弾と共に玉砕戦死しております。

森田必勝烈士の憂国の至情と壮挙に深い敬意を表します。
森田必勝烈士の御魂靖らかならんことをお祈り申し上げます。

青年日本の歌 奉唱
森田必勝烈士墓前
https://twitter.com/yamap888/status/1596080098620297216?s=20&t=ZdXADbp5cLOuVBs_kugIxQ

三島由紀夫烈士 檄 奉読
森田必勝烈士墓前
https://twitter.com/yamap888/status/1596088834504392705?s=20&t=ZdXADbp5cLOuVBs_kugIxQ


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(昭和四十五年)
一九七0年十一月二十五日沒
慈照院釋眞徹必勝居士位
俗名 森田必勝 二十五才




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(左)三島由紀夫烈士  (右)森田必勝烈士  陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地 昭和45年・1970年11月25日

天皇陛下萬歳



1970年11月25日 三島由紀夫 @ 東京 市ヶ谷 陸上自衛隊駐屯地



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三島由紀夫烈士
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB
(ウィキ:転載)三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日)は、日本の小説家・劇作家・評論家・政治活動家・民族主義者。血液型はA型
戦後の日本文学界を代表する作家の一人である。代表作は小説に『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『憂国』、『豊饒の海』四部作など、戯曲に『鹿鳴館』、『近代能楽集』、『サド侯爵夫人』などがある。人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。(転載ここまで)
晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年11月25日、前年の憂国烈士・江藤小三郎の自決に触発され、 楯の会隊員4名と共に、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)を訪れて東部方面総監を監禁。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前のバルコニーで演説しクーデターを促し、その約5分後に割腹自殺を遂げた。この一件は世間に大きな衝撃を与え、新右翼が生れるなど、国内の政治運動に大きな影響を及ぼした。(詳細は三島事件を参照) (転載ここまで)

三島由紀夫烈士 昭和45年11月25日 自衛隊市ヶ谷駐屯地にて割腹自決 享年45
 
三島由紀夫烈士 辞世の句


益荒男(ますらお)が  たばさむ太刀の 鞘鳴(さやな)りに
       幾とせ耐へて 今日の初霜

散るをいとふ 世にも人にも さきがけて
       散るこそ花と 吹く小夜嵐

 



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森田必勝烈士
(ウィキ:転載)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E5%BF%85%E5%8B%9D
皇紀2605年(昭和20年)西暦1945年7月25日 - 皇紀2630年(昭和45年)西暦1970年11月25日
三重県四日市市大治田(おばた)町出身。海星高校(四日市市)卒業、その後、早稲田大学へ入学。民族派学生組織「早稲田学生連盟」(のちの日本学生同盟、略称・日学同)の結成に参加。防衛問題を研究する早稲田大学国防部結成。「楯の会」のメンバー。 (転載ここまで)

日本学生同盟(略称:日学同)同盟員
全日本国防会議 初代議長(同会議には、近畿大学国防部、早稲田大学国防部などが加盟)
楯の会 初代学生長
早稲田大学国防部
(ソース:元・國士舘大学國防部  日本学生同盟・元委員長 荒木雅弘氏http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-2242.html
 
森田必勝烈士 昭和45年11月25日 自衛隊市ヶ谷駐屯地にて
三島由紀夫烈士を介錯の後、割腹自決 享年25

 
森田必勝烈士 辞世の句

今日にかけて かねて誓ひし
   我が胸の 思ひを知るは
       野分のみかは

 

戒名 慈照院釋眞徹必勝居士位
 
森田必勝烈士 
墓所 住所:三重県四日市市大治田(おばた)町3-5-54付近
地図
https://maps.google.co.jp/maps?q=%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E5%9B%9B%E6%97%A5%E5%B8%82%E5%B8%82%E5%A4%A7%E6%B2%BB%E7%94%B03-5-54&ie=UTF-8&ei=nTyVUqC5JIiikQXTy4DoBQ&ved=0CAgQ_AUoAg
ストリートビュー
https://www.google.co.jp/maps/@34.9222391,136.5984358,3a,75y,280.02h,67.53t/data=!3m6!1e1!3m4!1s0NdqcaktPxxCK2Lz1CzH0w!2e0!7i13312!8i6656





三島由紀夫烈士 檄文(全)
http://www.geocities.jp/kyoketu/61052.html
(以下、転載)

われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的行為に出たのは何故であるか。

かえりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後ついに知らなかった男の涙を知った。

ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑いもない。われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛冽の気を呼吸できる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。

しかもなお、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。

 われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。

政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。

われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。

もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。

自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。

われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。

憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。

 四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとえに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようという決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。

国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。

日本の軍隊の建軍の本義とは、「 天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねじ曲った大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしていたのである。

 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起ったか。総理訪米前の大詰ともいうべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終った。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起ったか。

政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」という火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。

治安出動は不用になった。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬かぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。

名を捨てて、実をとる! 政治家たちにとってはそれでよかろう。しかし自衛隊にとっては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。

 銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日という日は、自衛隊にとっては悲劇の日だった。創立以来二十年に亘って、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあろうか。

 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みていたように、もし自衛隊に武士の魂が残っているならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であろう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。

われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」という屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかった。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、自衛隊は声を奪われたカナリヤのように黙ったままだった。

 われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。諸官は任務を与えられなければ何もできぬという。しかし諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。

シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、という。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のように人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。

 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。

魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこかへ行こうとするのか。繊維交渉に当っては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかわる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかわらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。

 沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。

 われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。
共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。

生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。

これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。

もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。

われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

 三島由紀夫


(転載ここまで)

 

青年日本の歌(ニ・ニ六決起 自決・刑死の憂國烈士 鎮魂)


青年日本の歌
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/seinen.html
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五・一五決起 (昭和7年5月15日) http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-237.html
作詞・作曲:三上 卓

一、
汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ
巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ
混濁(こんだく)の世に我れ立てば
義憤に燃えて血潮湧く
二、
権門(けんもん)上(かみ)に傲(おご)れども
国を憂うる誠なし
財閥富を誇れども
社稷(しゃしょく)を思う心なし
三、
ああ人栄え国亡ぶ
盲(めしい)たる民世に踊る
治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり
四、
昭和維新の春の空
正義に結ぶ丈夫(ますらお)が
胸裡(きょうり)百万兵足りて
散るや万朶(ばんだ)の桜花
五、
古びし死骸(むくろ)乗り越えて
雲漂揺(ひょうよう)の身は一つ
国を憂いて立つからは
丈夫の歌なからめや
六、
天の怒りか地の声か
そもただならぬ響あり
民永劫(えいごう)の眠りより
醒めよ日本の朝ぼらけ
七、
見よ九天の雲は垂れ
四海の水は雄叫(おたけ)びて
革新の機(とき)到りぬと
吹くや日本の夕嵐
八、
ああうらぶれし天地(あめつち)の
迷いの道を人はゆく
栄華を誇る塵の世に
誰(た)が高楼の眺めぞや
九、
功名何ぞ夢の跡
消えざるものはただ誠
人生意気に感じては
成否を誰かあげつらう
十、
やめよ離騒(りそう)の一悲曲
悲歌慷慨(こうがい)の日は去りぬ
われらが剣(つるぎ)今こそは
廓清(かくせい)の血に躍るかな

昭和五年
作詞者の三上卓は海軍少尉で、昭和5年5月24才の時佐世保でこの歌を発表した。以来、昭和7年の5.15事件、昭和11年の2.26事件に連座した青年将校などが歌い継いだ。
 紀元前3~4世紀頃、中国は戦国時代にあった。当時揚子江流域一体を領土としていた楚に、屈原という人物がいた。詩人であり政治家でもあった屈原は、王への進言をことごとく側近に邪魔され、遂には失脚させられて追放される。しかし屈原は他の国に仕えることをせず、祖国の滅亡の危機を憂いながら洞庭湖畔汨羅の川に身を投げた。楚はやがて秦に滅ぼされ、以来屈原は「不運の愛国者」の代名詞となった。
 この歌はこの故事を冒頭に引いている。ちなみに、端午の節句の「ちまき」は彼に由来する。 

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二・二六決起から77年 坂井直・陸軍中尉(刑死)の墓参 敷島通信25/02/26
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-2076.html

憂國の刑死者・自決者(三重県北勢地区・四日市)
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-1161.html

2・26決起 昭和11年2月26日
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-1953.html

二・二六事件 坂井直中尉(銃殺刑死)、森田必勝烈士(三島由紀夫烈士と共に自衛隊で割腹自決)のお墓参り
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-1074.html

「青年日本の歌」皇紀2673年11月25日 森田必勝烈士 没後43年・祥月命日 墓前にて(敷島通信)
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-2089.html

「青年日本の歌」「三島由紀夫烈士 檄文」皇紀2674年11月25日 森田必勝烈士 没後44年・祥月命日 墓前にて(敷島通信 26/11/25)
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-2118.html

楯の会 森田必勝烈士 自決没後45年・祥月命日 墓参 「青年日本の歌」奉唱 「三島由紀夫烈士 檄文」奉読 皇紀2675年・平成27年11月25日 (三重県四日市市大治田町) 敷島通信
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-2219.html

二・二六決起
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-category-1.html



三島由紀夫が生きた時代 楯の会と森田必勝 単行本(ソフトカバー) – 2015/10/20
村田春樹 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%9F%E6%99%82%E4%BB%A3-%E6%A5%AF%E3%81%AE%E4%BC%9A%E3%81%A8%E6%A3%AE%E7%94%B0%E5%BF%85%E5%8B%9D-%E6%9D%91%E7%94%B0%E6%98%A5%E6%A8%B9/dp/4792605326
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村田春樹氏
昭和44年 早稲田大学高等学院卒業
昭和48年 早稲田大学第一政治経済学部政治学科卒業
早稲田大学在学中 楯の会隊員

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令和5年 愛知県知事選挙立候補記者会見 山下しゅんすけ(山下俊輔) 令和4年10月13日


令和5年 愛知県知事選挙立候補記者会見 山下しゅんすけ(山下俊輔) 令和4年10月13日 読売新聞取材会見


大愛知構想(骨子案)
https://yamashitashunsuke.wixsite.com/-site
愛知県の係る政策



山下俊輔(山下しゅんすけ)@愛知県知事選挙立候補予定者
@yamap888
🇯🇵無所属。#県民と起きる会 代表。南区市議選元候補者。男系男子皇統護持。尖閣・北海道死守。拉致被害者奪還。愛知県ヘイトスピーチ条例廃止。移民政策反対。南区,名古屋市,愛知県,日本,國體護持 #国士舘 #山下村塾 web https://yamashitashunsuke.wixsite.com/-site
日本 愛知 名古屋南区Nagoya,Aichi,JAPAN hirihoukenten11111.blog.fc2.com誕生日: 1962年4月2日
https://twitter.com/yamap888

第26回参議院議員通常選挙 愛知県選挙区 記事
208_20221023002517bc0.png

戸籍開示
https://twitter.com/yamap888/status/1534368741554806786

三重県立四日市南高校卒
https://twitter.com/yamap888/status/1538046360850960385

国士舘大学政経学部一部 経営学科4年生9月 中途退学
https://twitter.com/yamap888/status/1535056948575760385

勇気ある発言者(あいちトリエンナーレ2019国際フォーラム)
https://twitter.com/yamap888/status/1533204968383344641

YouTube
山下俊輔(山下しゅんすけ)dainipponkoukoku
https://www.youtube.com/user/dainipponkoukoku/videos
山下俊輔(山下しゅんすけ) fujisansantyou
https://www.youtube.com/user/fujisansantyou/videos

れ い な@rere_083
推せる
https://twitter.com/rere_083/status/1542138651723051009


第26回参議院議員通常選挙 愛知県選挙区 選挙公報
202_20220708064843198.jpg


第26回参議院議員通常選挙 愛知県選挙区 政見放送


私は日本人です
https://twitter.com/Lu1vunH6iqICRY3/status/1544239548460601344

怒涛の一撃、会場の空気が変わる瞬間 勇気ある発言者 あいちトリエンナーレ


勇気ある発言者
山下俊輔(山下しゅんすけ)
あいちトリエンナーレ2019 国際フォーラム
https://twitter.com/yamap888/status/1533204968383344641






二・二六決起 坂井直・陸軍中尉(銃殺刑死)の墓参
決起から83年 皇紀2679年・平成31年2月26日
『青年日本の歌』奉唱
三重県四日市市桜町









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坂井直(さかい・なおし)陸軍中尉 
陸軍士官学校44期 三重県四日市市桜町出身
明治43年・1910年8月13日生まれ 
二・二六決起(昭和11年・1936年2月26日)
銃殺刑死(昭和11年・1936年7月12日午前7時54分 額の真ん中に被弾) 満25歳没
三重県「二・二六事件と三重県関係者」
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail.asp?record=40
転載:坂井中尉は事件当時27歳(年齢詳細確認要)


半月前に結婚した妻・孝子を思いやっての遺書 (2・26事件と昭和維新から転載)

死がやってまいりました。孝子の腹巻に御守りが這入って居ります。宏大無辺の即仏の御慈悲に浸り、唯忠を念じて瞑目致します。前途を祝福してください。
天皇陛下万歳


遺詠(昭和11年7月10日) (二・二六事件の真実から転載)
この上は護國の鬼と仕えてそ 死して甲斐ある命なるらん

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遺書 「尊皇愛國  昭和11年7月10日 坂井直」

鎮魂 



二・二六決起(昭和11年2月26日) 坂井直・陸軍中尉(銃殺刑死)の墓参 決起から83年 「青年日本の歌」奉唱
(三重県四日市市桜町 31/02/26)



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二・二六決起 坂井直・陸軍中尉のお墓(平成31年2月26日)


皇紀2679年・平成31年2月26日、二・二六決起(昭和11年2月26日) 坂井直 陸軍中尉(銃殺刑死)の墓参をさせて頂きました。

二・二六決起から83年となります。

本年も昨年と同じく快晴で温かい日となりました。そして、鈴鹿山脈の美しい姿をはっきりと見ることができました。

墓前にて二・二六の決起将校の方々が歌ったであろうと思われる「青年日本の歌」を奉唱させて頂きました。

私の祖父(大東亜聖戦インパール作戦に参戦の後、イラワジ河会戦と思われる同会戦でイラワジ川の畔で爆弾と共にビルママンダレー縣ピンミのイラワジ川の畔でに戦死)の弟、私の大叔父(軍歴:陸軍士官学校→関東軍司令部付→陸軍大学校第53期→第9師団参謀→南方軍参謀→第3船舶輸送参謀兼南方軍参謀→南方軍参謀兼南方軍兵站参謀→第16方面軍参謀兼第1船舶輸送参謀→大東亜聖戦終戦→公職追放→(サンフランシスコ講和条約)→陸上自衛隊復帰→第1管区総監部幕僚長→第1特科団長→第10師団司令部付)が、陸軍士官学校第43期で、坂井直・陸軍中尉は陸軍士官学校第44期ということで、共に三重県の北勢地区出身ということで、坂井直・陸軍中尉に於かれましては大叔父を存じ上げておられたであろうと思うところでございます。

近くで畑仕事をされていた方とお話をさせて頂きましたとこころ、大日本帝國陸軍に16歳で志願して先の大東亜聖戦に参戦し終戦を迎えたと言っておられました。昨年も畑仕事をされていたのを記憶しておりましたので、そのことを言うと昨年もいたと言っておられました。日本の将来について憂いておられました。

坂井直陸軍中尉の四日市市桜町の墓所から、南東に17㎞程の四日市市大治田には、楯の会・森田必勝烈士(昭和45年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にて三島由紀夫烈士を介錯の後、割腹自決 享年25 http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-2373.html)の墓所がございます。

三島由紀夫烈士は、二・二六決起で銃殺刑に処せられた青年将校の短編小説「英霊の聲 https://youtu.be/V33BL8w94NY」を著述されております。

坂井直・陸軍中尉の御魂靖らかならんことをお祈りし、憂国の志に深い敬意を表させて頂きました。

坂井直・陸軍中尉の憂國の至情、神州日本、日本民族に垂れ給わんことを御祈念申し上げます。

尊皇討奸

萬世一系の皇統護持

皇尊彌榮 皇御國彌榮

天皇陛下萬歳


(三重県北勢地区に於ける二・二六決起に関する備考)栗原安秀・陸軍中尉は、「佐賀県の出身ですが、幼少より三重県で育ち、桑名の小学校から、県立富田中学へ進み、津中学にも1年半ほど在学していました」と三重県のホームページの「二・二六事件と三重県関係者」に記載されております。

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水谷架義氏

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水谷架義氏

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水谷架義氏

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水谷架義氏

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左:水谷架義氏  右:日本第一党副党首・長尾旭氏

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坂井直陸軍中尉のお墓の後方の三滝川の土手から撮影した鈴鹿山脈 平成31年2月26日撮影
左から:鎌ヶ岳 1161m、御在所岳 1,212m 日本二百名山https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%8C%E7%99%BE%E5%90%8D%E5%B1%B1、国見岳 1,170m

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画像:三重県http://www.pref.mie.lg.jp/HKENSET/HP/06387001760-01.htmから転載させて頂きました。
鈴鹿山脈https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E9%B9%BF%E5%B1%B1%E8%84%88

決起の御魂
  靖らかならんと 祈りせば
   鈴鹿山脈 変わらぬ姿

作:私
解説
二・二六決起の青年将校 坂井直陸軍中尉のお墓参りをさせて頂き、銃殺刑死となられた御魂靖らかならんとお祈りさせて頂き、鈴鹿山脈の山々をみると、昭和11年2月26日、83年前と何も変わらない姿であろうとの情景から、天地大自然の長い営みの中の出来事で、その営みの中の日本民族の憂国の至情の発露が具現化したとの叙情を謳ったものである。

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突き当りの左辺りに表札「三十三間筒」(さんじゅうさんげんどう)があり、その左方面がお墓
平成31年2月26日撮影

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お墓に入る所にある表札(新しくなった表札は平成30年2月26日現認) 平成31年2月26日撮影

(以下、表札の文字起こし)
三十三間筒
三十三間筒(どう)について、地籍村地誌(明治十七年編)は次の様に記述している。
<埋樋(うめとい)>神森村、桜村の界、金谷(かんだに)川底にして蟹川にあり、長三十間、堅二尺五寸、巾三尺。
正徳元年(一七一一)松平越中守代官石原清右ヱ門官費を以って伏替、長三十三間、内法(のり)三尺、其後石樋に換し前の数と改む。
江戸時代、知積東部は桑名藩松平家に属していたが、三滝川も金渓川(かんだにがわ)(金谷川)も常水がなく灌漑用水にこまり、森(神森)の蟹池(伏流水)を水源とする蟹川に頼っていた。
しかし、旱魃(かんばつ)の年には水不足のため両村の間に水論が起こり、安永六年(一七七七)の訴訟問題は十年後の天明六年(一七八六)に解した。
この結果、森村の用水の余分の水は残らず埋樋(三十三間筒)を通して知積村へ流す約束ができた。
明治時代の測量図では、金渓川の右岸堤防は今の桜一色の堤防沿いの道になっており、昔の川幅が三十数間もあったことがわかる。
桜地区連合自治会
監修 桜郷土史研究会

「三十三間筒」(さんじゅうさんげんどう)  桜地区地域社会つくり推進委員会  桜郷土史研究会
http://www.sakuracom.jp/~kyoudoshi/shisekisetumeiban/setumei.html#shiseki11
http://www.sakuracom.jp/~kyoudoshi/11-33kendou/33kendou.html



敷島通信 2679(31)-02-26



『「二・二六決起」坂井直陸軍中尉 「楯の会」森田必勝烈士』ブログ群のURL)
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-category-1.html



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昭和維新の歌 映画 『2・26』 より https://youtu.be/cqH_yKjQw-A
映画「226」 皇紀2649年(1989年)
坂井直・陸軍中尉役・・・加藤昌也(雅也)
妻・坂井孝子役・・・藤谷美和子

諏訪神社とニ・ニ六事件
http://www.citydo.com/prf/mie/area_kita/kenbun/discover/yokkaichi001.html
二・二六事件を起こした青年将校の一人、坂井直中尉が結婚式を挙げた神社なのです。理想に燃えた青年将校は、諏訪神社で挙式後すぐに事件に参加しています。残された新妻は、決起のことも後から本人に知らされ、夫婦として2週間一緒に生活しただけで夫を失いました。 (転載)

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諏訪神社 (三重県四日市市諏訪栄町22-38)http://www.suwajinjya.jp/  平成31年2月26日撮影
主祭神
建御名方命 タケミナカタノミコト (別称:武南方神、諏訪神)
八重事代主命 ヤエコトシロヌシノミコト (別称:事代主神、積羽八重(ツミハヤエ)事代主神、恵比寿大神、一言主神)

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青年日本の歌
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/seinen.html

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五・一五決起 (昭和7年5月15日) http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-237.html
作詞・作曲:三上 卓

一、
汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ
巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ
混濁(こんだく)の世に我れ立てば
義憤に燃えて血潮湧く
二、
権門(けんもん)上(かみ)に傲(おご)れども
国を憂うる誠なし
財閥富を誇れども
社稷(しゃしょく)を思う心なし
三、
ああ人栄え国亡ぶ
盲(めしい)たる民世に踊る
治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり
四、
昭和維新の春の空
正義に結ぶ丈夫(ますらお)が
胸裡(きょうり)百万兵足りて
散るや万朶(ばんだ)の桜花
五、
古びし死骸(むくろ)乗り越えて
雲漂揺(ひょうよう)の身は一つ
国を憂いて立つ時に
丈夫の歌なからめや
六、
天の怒りか地の声か
そもただならぬ響あり
民永劫(えいごう)の眠りより
醒めよ日本の朝ぼらけ
七、
見よ九天の雲は垂れ
四海の水は雄叫(おたけ)びて
革新の機(とき)到りぬと
吹くや日本の夕嵐
八、
ああうらぶれし天地(あめつち)の
迷いの道を人はゆく
栄華を誇る塵の世に
誰(た)が高楼の眺めぞや
九、
功名何ぞ夢の跡
消えざるものはただ誠
人生意気に感じては
成否を誰かあげつらう
十、
やめよ離騒(りそう)の一悲曲
悲歌慷慨(こうがい)の日は去りぬ
われらが剣(つるぎ)今こそは
廓清(かくせい)の血に躍るかな

昭和五年

 ……作詞者の三上卓は海軍少尉で、昭和5年5月24才の時佐世保でこの歌を発表した。以来、昭和7年の5.15事件、昭和11年の2.26事件に連座した青年将校などが歌い継いだ。
 紀元前3~4世紀頃、中国は戦国時代にあった。当時揚子江流域一体を領土としていた楚に、屈原という人物がいた。詩人であり政治家でもあった屈原は、王への進言をことごとく側近に邪魔され、遂には失脚させられて追放される。しかし屈原は他の国に仕えることをせず、祖国の滅亡の危機を憂いながら洞庭湖畔汨羅の川に身を投げた。楚はやがて秦に滅ぼされ、以来屈原は「不運の愛国者」の代名詞となった。
 この歌はこの故事を冒頭に引いている。ちなみに、端午の節句の「ちまき」は彼に由来する。(ネットより転載) 


非理法権天「端午の節句」
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-1708.html

端午の節句
http://kids.goo.ne.jp/parent/seasonevent/kodomonohi/detail_07.html
http://www.kougetsu.co.jp/tangonosekku/tango-iware.htm

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墓所:三重県四日市市桜町228-4(の北がお墓)
墓所地図⇒https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92512-1211+%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E5%9B%9B%E6%97%A5%E5%B8%82%E5%B8%82%E6%A1%9C%E7%94%BA%EF%BC%92%EF%BC%92%EF%BC%98%E2%88%92%EF%BC%94/@34.9991921,136.5411177,125m/data=!3m1!1e3!4m5!3m4!1s0x600392eea20ad5eb:0x95b470ed83b8b7e6!8m2!3d34.9990243!4d136.541546
二・二六決起 坂井直中尉のお墓は三重県四日市市桜の湯の山街道の湯の山に向かい四日市インターチェンジを超えて1キロくらい行くと、道路が川を越えるために登り坂になる手前を右に入って金渓川の南にあります。
三重県四日市市桜町228-4の北にあるお墓です。
近くに綺麗な小川が流れ、墓所の一番奥(北)の列で左奥(西奥)から二番目で、その列の一番背の高い先祖代々と記されたお墓です。



青年日本の歌(ニ・ニ六決起 自決・刑死の憂國烈士 鎮魂)
http://www.youtube.com/watch?v=aOxBzEoW0Dg
 

二・二六決起 憂國烈士
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-1872.html






二・二六決起 坂井直・陸軍中尉(銃殺刑死)の墓参
決起から82年 皇紀2678年・平成30年2月26日
『青年日本の歌』奉唱
三重県四日市市桜町
敷島通信









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坂井直(さかい・なおし)陸軍中尉 
陸軍士官学校44期 三重県四日市市桜町出身
明治43年・1910年8月13日生まれ 
二・二六決起(昭和11年・1936年2月26日)
銃殺刑死(昭和11年・1936年7月12日午前7時54分 額の真ん中に被弾) 満25歳没
三重県「二・二六事件と三重県関係者」
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail.asp?record=40
転載:坂井中尉は事件当時27歳(年齢詳細確認要)


半月前に結婚した妻・孝子を思いやっての遺書 (2・26事件と昭和維新から転載)

死がやってまいりました。孝子の腹巻に御守りが這入って居ります。宏大無辺の即仏の御慈悲に浸り、唯忠を念じて瞑目致します。前途を祝福してください。
天皇陛下万歳


遺詠(昭和11年7月10日) (二・二六事件の真実から転載)
この上は護國の鬼と仕えてそ 死して甲斐ある命なるらん

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遺書 「尊皇愛國  昭和11年7月10日 坂井直」

鎮魂 



二・二六決起(昭和11年2月26日) 坂井直・陸軍中尉(銃殺刑死)の墓参 決起から82年 「青年日本の歌」奉唱
(三重県四日市市桜町 30/02/26)敷島通信

※動画の山の画像は、坂井直・陸軍中尉のお墓の後ろの土手から平成30年2月26日に撮影した鈴鹿山脈です。


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二・二六決起 坂井直・陸軍中尉のお墓(平成30年2月26日)


皇紀2678年・平成30年2月26日、二・二六決起(昭和11年2月26日)の坂井直・陸軍中尉のお墓参りをさせて頂きました。

二・二六決起から82年目となります。

本年で6年目となりますお墓参りですが、今までで一番天気が良く、雲一つない晴天で、風もあまり吹いておらず、気温も暖かく春先のような天候でした。

鈴鹿山脈がはっきりと見え、また白い月も見え、青い空、太陽、月、山、お墓の背後の三滝川、お墓の脇を流れる清流の小川と坂井直・陸軍中尉が子供のころ見たであろうと思われるほのぼのとした景色を共有させて頂いたのではないかと思うところでございます。

お墓に献花をさせて頂き、お参りをさせて頂き、二・二六決起の青年将校の日本民族諸先輩方が歌ったであろう「青年日本の歌(昭和維新の歌)」を墓前にて奉唱させて頂き、坂井直・陸軍中尉が、銃殺刑に処せられる直前に、唱和したと言われる「 天皇陛下萬歳」を同じく墓前にて唱和させて頂きました。

また、私の出身、出自について、三重県北勢某地区出身で、同地区の祖父がインパール作戦に参戦後イラワジ河会戦と思われますが、イラワジ川の畔で爆弾と共に戦死し、祖父の弟(同地区出身、陸軍士官学校→陸軍大学→関東軍作戦参謀→南方総軍→某方面軍参謀→終戦→公職追放→(サンフランシスコ講和条約)→陸上自衛隊に復帰→陸自某特科団長→陸自第10師団)が、陸軍士官学校第43期で坂井直陸軍中尉の一期上になると思われます、との主旨のことを心の中で述べさせて頂きました。

お墓の後ろには、「大正八年建 坂井傳七」と記されております。

真っ青に晴れ渡った空の元、坂井直陸軍中尉の憂國の志に敬意を表し、御魂靖からんことを御祈念申し上げ、お墓参りをさせて頂きました。

坂井直・陸軍中尉の憂國の至情、神州日本、日本民族に垂れ給わんことを御祈念申し上げます。

尊皇討奸

萬世一系の皇統護持

皇尊彌榮 皇御國彌榮

天皇陛下萬歳


(三重県北勢地区に於ける二・二六決起に関する備考)栗原安秀・陸軍中尉は、「佐賀県の出身ですが、幼少より三重県で育ち、桑名の小学校から、県立富田中学へ進み、津中学にも1年半ほど在学していました」と三重県のホームページの「二・二六事件と三重県関係者」に記載されております。

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坂井直陸軍中尉のお墓の後方の三滝川の土手から撮影した鈴鹿山脈 平成30年2月26日

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坂井直陸軍中尉のお墓から300mほど離れた所から撮影した月(月齢10.3) 平成30年2月26日

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奥に見える上記表札「三十三間筒」(さんじゅうさんげんどう)の左方面がお墓
平成30年2月26日撮影

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お墓に入る所にある表札(平成30年2月26日現認、新しくなった表札) 平成30年2月26日撮影

(以下、表札の文字起こし)
三十三間筒
三十三間筒(どう)について、地籍村地誌(明治十七年編)は次の様に記述している。
<埋樋(うめとい)>神森村、桜村の界、金谷(かんだに)川底にして蟹川にあり、長三十間、堅二尺五寸、巾三尺。
正徳元年(一七一一)松平越中守代官石原清右ヱ門官費を以って伏替、長三十三間、内法(のり)三尺、其後石樋に換し前の数と改む。
江戸時代、知積東部は桑名藩松平家に属していたが、三滝川も金渓川(かんだにがわ)(金谷川)も常水がなく灌漑用水にこまり、森(神森)の蟹池(伏流水)を水源とする蟹川に頼っていた。
しかし、旱魃(かんばつ)の年には水不足のため両村の間に水論が起こり、安永六年(一七七七)の訴訟問題は十年後の天明六年(一七八六)に解した。
この結果、森村の用水の余分の水は残らず埋樋(三十三間筒)を通して知積村へ流す約束ができた。
明治時代の測量図では、金渓川の右岸堤防は今の桜一色の堤防沿いの道になっており、昔の川幅が三十数間もあったことがわかる。
桜地区連合自治会
監修 桜郷土史研究会

「三十三間筒」(さんじゅうさんげんどう)  桜地区地域社会つくり推進委員会  桜郷土史研究会
http://www.sakuracom.jp/~kyoudoshi/shisekisetumeiban/setumei.html#shiseki11
http://www.sakuracom.jp/~kyoudoshi/11-33kendou/33kendou.html



敷島通信 2678(30)-02-26



『「二・二六決起」坂井直陸軍中尉 「楯の会」森田必勝烈士』ブログ群のURL)
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-category-1.html



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昭和維新の歌 映画 『2・26』 より https://youtu.be/cqH_yKjQw-A
映画「226」 皇紀2649年(1989年)
坂井直・陸軍中尉役・・・加藤昌也(雅也)
妻・坂井孝子役・・・藤谷美和子

諏訪神社とニ・ニ六事件
http://www.citydo.com/prf/mie/area_kita/kenbun/discover/yokkaichi001.html
二・二六事件を起こした青年将校の一人、坂井直中尉が結婚式を挙げた神社なのです。理想に燃えた青年将校は、諏訪神社で挙式後すぐに事件に参加しています。残された新妻は、決起のことも後から本人に知らされ、夫婦として2週間一緒に生活しただけで夫を失いました。 (転載)

5233.jpg
諏訪神社 (三重県四日市市諏訪栄町22-38)http://www.suwajinjya.jp/  平成30年2月26日撮影
主祭神
建御名方命 タケミナカタノミコト (別称:武南方神、諏訪神)
八重事代主命 ヤエコトシロヌシノミコト (別称:事代主神、積羽八重(ツミハヤエ)事代主神、恵比寿大神、一言主神)

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青年日本の歌
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/seinen.html

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五・一五決起 (昭和7年5月15日) http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-237.html
作詞・作曲:三上 卓

一、
汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ
巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ
混濁(こんだく)の世に我れ立てば
義憤に燃えて血潮湧く
二、
権門(けんもん)上(かみ)に傲(おご)れども
国を憂うる誠なし
財閥富を誇れども
社稷(しゃしょく)を思う心なし
三、
ああ人栄え国亡ぶ
盲(めしい)たる民世に踊る
治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり
四、
昭和維新の春の空
正義に結ぶ丈夫(ますらお)が
胸裡(きょうり)百万兵足りて
散るや万朶(ばんだ)の桜花
五、
古びし死骸(むくろ)乗り越えて
雲漂揺(ひょうよう)の身は一つ
国を憂いて立つ時に
丈夫の歌なからめや
六、
天の怒りか地の声か
そもただならぬ響あり
民永劫(えいごう)の眠りより
醒めよ日本の朝ぼらけ
七、
見よ九天の雲は垂れ
四海の水は雄叫(おたけ)びて
革新の機(とき)到りぬと
吹くや日本の夕嵐
八、
ああうらぶれし天地(あめつち)の
迷いの道を人はゆく
栄華を誇る塵の世に
誰(た)が高楼の眺めぞや
九、
功名何ぞ夢の跡
消えざるものはただ誠
人生意気に感じては
成否を誰かあげつらう
十、
やめよ離騒(りそう)の一悲曲
悲歌慷慨(こうがい)の日は去りぬ
われらが剣(つるぎ)今こそは
廓清(かくせい)の血に躍るかな

昭和五年

 ……作詞者の三上卓は海軍少尉で、昭和5年5月24才の時佐世保でこの歌を発表した。以来、昭和7年の5.15事件、昭和11年の2.26事件に連座した青年将校などが歌い継いだ。
 紀元前3~4世紀頃、中国は戦国時代にあった。当時揚子江流域一体を領土としていた楚に、屈原という人物がいた。詩人であり政治家でもあった屈原は、王への進言をことごとく側近に邪魔され、遂には失脚させられて追放される。しかし屈原は他の国に仕えることをせず、祖国の滅亡の危機を憂いながら洞庭湖畔汨羅の川に身を投げた。楚はやがて秦に滅ぼされ、以来屈原は「不運の愛国者」の代名詞となった。
 この歌はこの故事を冒頭に引いている。ちなみに、端午の節句の「ちまき」は彼に由来する。(ネットより転載) 


非理法権天「端午の節句」
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-1708.html

端午の節句
http://kids.goo.ne.jp/parent/seasonevent/kodomonohi/detail_07.html
http://www.kougetsu.co.jp/tangonosekku/tango-iware.htm

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墓所:三重県四日市市桜町228-4(の北がお墓)
墓所地図⇒https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92512-1211+%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E5%9B%9B%E6%97%A5%E5%B8%82%E5%B8%82%E6%A1%9C%E7%94%BA%EF%BC%92%EF%BC%92%EF%BC%98%E2%88%92%EF%BC%94/@34.9991921,136.5411177,125m/data=!3m1!1e3!4m5!3m4!1s0x600392eea20ad5eb:0x95b470ed83b8b7e6!8m2!3d34.9990243!4d136.541546
二・二六決起 坂井直中尉のお墓は三重県四日市市桜の湯の山街道の湯の山に向かい四日市インターチェンジを超えて1キロくらい行くと、道路が川を越えるために登り坂になる手前を右に入って金渓川の南にあります。
三重県四日市市桜町228-4の北にあるお墓です。
近くに綺麗な小川が流れ、墓所の一番奥(北)の列で左奥(西奥)から二番目で、その列の一番背の高い先祖代々と記されたお墓です。



青年日本の歌(ニ・ニ六決起 自決・刑死の憂國烈士 鎮魂)
http://www.youtube.com/watch?v=aOxBzEoW0Dg
 

二・二六決起 憂國烈士
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-1872.html







「楯の会 森田必勝烈士」祥月命日
皇紀2677年・平成29年11月25日 没後47年 墓参
「青年日本の歌」奉唱 「三島由紀夫烈士 檄文」奉読
墓所: 三重県四日市市大治田(おばた)町3-5-54付近
敷島通信
 


                鎮魂  七生報國

三島 森田
       楯の会 森田必勝烈士                  楯の会 三島由紀夫烈士

楯の会 三島由紀夫烈士
昭和45年(1970年)11月25日 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にて割腹自決 享年45


楯の会 森田必勝烈士
昭和45年(1970年)11月25日 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にて
三島由紀夫烈士を介錯の後、割腹自決 享年25




「楯の会 森田必勝烈士」祥月命日 皇紀2677年・平成29年11月25日 没後47年 墓参
「青年日本の歌」奉唱 「三島由紀夫烈士 檄文」奉読  墓所:三重県四日市市大治田町(敷島通信)





本年で5年目となりますところの森田必勝烈士の祥月命日11月25日、お墓参りをさせていただきました。

森田必勝烈士が自決されて、47年の月日が流れました。

本年は朝から晴天に恵まれ、お墓参りをさせていただいているときも晴天でありました。

初年度は大雨、二年目も雨、三年目も雨、四年目は曇天からお墓参りが終わると晴天、そして本年は晴れの日となりましたことに感慨深く思うところです。

本年度は、お墓参りをさせていただいているときに森田必勝烈士のお墓参りに来られた方はおりませんでした。

墓地にお参りに来られた方が二名おられただけでした。

墓前にて青年日本の歌を奉唱させていただき、三島由紀夫烈士の檄文を奉読させていただきました。

三重県北勢地区四日市には二・二六決起の坂井直陸軍中尉がおられます。
(備考)二・二六決起 坂井直・陸軍中尉(銃殺刑死)の墓参 決起から81年 「青年日本の歌」奉唱 (敷島通信 三重県四日市市桜町 29/02/26) http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-2294.html  

森田必勝烈士と共に郷土に語り継がれるべきであると思うところです。

また、赤報隊の志士が四日市の三滝川で処刑されておりますが、そのことを知る人も多くはないかと思います。
(備考)三重県四日市市 三滝川原で赤報隊7名が斬首されたことが記録されている
「亀山藩士もいた赤報隊-世直しへ先鋭化 新政府と対立」http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken/detail.asp?record=246
場所:三重県庁の説明から幕府の役所があった四日市市北町の北側付近の川原ではないかと推測できる。
地図:三重県四日市市北町 

國憂ひて、処刑、自決された烈士の三重県四日市の郷土の士の存在に意義深く思い、敬意を表するととともに次代にそういった事実があったことが少しでも繋がっていけばと思うところです。

晴れ渡った天気となりました祥月命日に、森田必勝烈士は幽世(かくりょ)で如何様に思われているのでしょうか。

我が国日本に於いては、憲法改正の動きがみられる昨今でありますが、軍を軍とする憲法の改正により、国軍の本義たらしめる要諦を担保する時が刻一刻と訪れんとするところでしょうか。

三島由紀夫烈士、森田必勝烈士の御魂靖からんことを御祈り申し上げ、國憂い自決された壮挙に深い敬意を表し、憂國の至情、神州日本、日本民族に垂れ給わんことを謹みて御祈念申し上げます。 鎮魂

幽世大神憐給恵給幸魂奇魂守給幸給

皇尊彌榮 皇御國彌榮

國體護持

萬世一系の皇統護持

神州日本不滅也

天皇陛下萬歳




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森田必勝烈士のお墓(上が丸いお墓) 東から西に向かって

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森田必勝烈士のお墓  三重県四日市市大治田(おばた)町3-5-54付近

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(昭和四十五年)
一九七0年十一月二十五日沒
慈照院釋眞徹必勝居士位
俗名 森田必勝 二十五才




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(左)三島由紀夫烈士  (右)森田必勝烈士  陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地 昭和45年・1970年11月25日

天皇陛下萬歳



1970年11月25日 三島由紀夫 @ 東京 市ヶ谷 陸上自衛隊駐屯地



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三島由紀夫烈士
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB
(ウィキ:転載)三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日)は、日本の小説家・劇作家・評論家・政治活動家・民族主義者。血液型はA型
戦後の日本文学界を代表する作家の一人である。代表作は小説に『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『憂国』、『豊饒の海』四部作など、戯曲に『鹿鳴館』、『近代能楽集』、『サド侯爵夫人』などがある。人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。(転載ここまで)
晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年11月25日、前年の憂国烈士・江藤小三郎の自決に触発され、 楯の会隊員4名と共に、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)を訪れて東部方面総監を監禁。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前のバルコニーで演説しクーデターを促し、その約5分後に割腹自殺を遂げた。この一件は世間に大きな衝撃を与え、新右翼が生れるなど、国内の政治運動に大きな影響を及ぼした。(詳細は三島事件を参照) (転載ここまで)

三島由紀夫烈士 昭和45年11月25日 自衛隊市ヶ谷駐屯地にて割腹自決 享年45
 
三島由紀夫烈士 辞世の句


益荒男(ますらお)が  たばさむ太刀の 鞘鳴(さやな)りに
       幾とせ耐へて 今日の初霜

散るをいとふ 世にも人にも さきがけて
       散るこそ花と 吹く小夜嵐

 



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森田必勝烈士
(ウィキ:転載)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E5%BF%85%E5%8B%9D
皇紀2605年(昭和20年)西暦1945年7月25日 - 皇紀2630年(昭和45年)西暦1970年11月25日
三重県四日市市大治田(おばた)町出身。海星高校(四日市市)卒業、その後、早稲田大学へ入学。民族派学生組織「早稲田学生連盟」(のちの日本学生同盟、略称・日学同)の結成に参加。防衛問題を研究する早稲田大学国防部結成。「楯の会」のメンバー。 (転載ここまで)

日本学生同盟(略称:日学同)同盟員
全日本国防会議 初代議長(同会議には、近畿大学国防部、早稲田大学国防部などが加盟)
楯の会 初代学生長
早稲田大学国防部
(ソース:元・國士舘大学國防部  日本学生同盟・元委員長 荒木雅弘氏http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-2242.html
 
森田必勝烈士 昭和45年11月25日 自衛隊市ヶ谷駐屯地にて
三島由紀夫烈士を介錯の後、割腹自決 享年25

 
森田必勝烈士 辞世の句

今日にかけて かねて誓ひし
   我が胸の 思ひを知るは
       野分のみかは

 

戒名 慈照院釋眞徹必勝居士位
 
森田必勝烈士 
墓所 住所:三重県四日市市大治田(おばた)町3-5-54付近
地図
https://maps.google.co.jp/maps?q=%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E5%9B%9B%E6%97%A5%E5%B8%82%E5%B8%82%E5%A4%A7%E6%B2%BB%E7%94%B03-5-54&ie=UTF-8&ei=nTyVUqC5JIiikQXTy4DoBQ&ved=0CAgQ_AUoAg
ストリートビュー
https://www.google.co.jp/maps/@34.9222391,136.5984358,3a,75y,280.02h,67.53t/data=!3m6!1e1!3m4!1s0NdqcaktPxxCK2Lz1CzH0w!2e0!7i13312!8i6656





三島由紀夫烈士 檄文(全)
http://www.geocities.jp/kyoketu/61052.html
(以下、転載)

われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的行為に出たのは何故であるか。

かえりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後ついに知らなかった男の涙を知った。

ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑いもない。われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛冽の気を呼吸できる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。

しかもなお、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。

 われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。

政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。

われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。

もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。

自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。

われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。

憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。

 四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとえに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようという決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。

国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。

日本の軍隊の建軍の本義とは、「 天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねじ曲った大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしていたのである。

 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起ったか。総理訪米前の大詰ともいうべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終った。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起ったか。

政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」という火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。

治安出動は不用になった。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬かぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。

名を捨てて、実をとる! 政治家たちにとってはそれでよかろう。しかし自衛隊にとっては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。

 銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日という日は、自衛隊にとっては悲劇の日だった。創立以来二十年に亘って、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあろうか。

 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みていたように、もし自衛隊に武士の魂が残っているならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であろう。男であれば、男の衿がどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。

われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」という屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかった。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、自衛隊は声を奪われたカナリヤのように黙ったままだった。

 われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。諸官は任務を与えられなければ何もできぬという。しかし諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。

シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、という。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のように人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。

 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。

魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこかへ行こうとするのか。繊維交渉に当っては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかわる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかわらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。

 沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。

 われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。
共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。

生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。

これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。

もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。

われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

 三島由紀夫


(転載ここまで)

 

青年日本の歌(ニ・ニ六決起 自決・刑死の憂國烈士 鎮魂)


青年日本の歌
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/seinen.html
2525.jpg
五・一五決起 (昭和7年5月15日) http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-237.html
作詞・作曲:三上 卓

一、
汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ
巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ
混濁(こんだく)の世に我れ立てば
義憤に燃えて血潮湧く
二、
権門(けんもん)上(かみ)に傲(おご)れども
国を憂うる誠なし
財閥富を誇れども
社稷(しゃしょく)を思う心なし
三、
ああ人栄え国亡ぶ
盲(めしい)たる民世に踊る
治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり
四、
昭和維新の春の空
正義に結ぶ丈夫(ますらお)が
胸裡(きょうり)百万兵足りて
散るや万朶(ばんだ)の桜花
五、
古びし死骸(むくろ)乗り越えて
雲漂揺(ひょうよう)の身は一つ
国を憂いて立つからは
丈夫の歌なからめや
六、
天の怒りか地の声か
そもただならぬ響あり
民永劫(えいごう)の眠りより
醒めよ日本の朝ぼらけ
七、
見よ九天の雲は垂れ
四海の水は雄叫(おたけ)びて
革新の機(とき)到りぬと
吹くや日本の夕嵐
八、
ああうらぶれし天地(あめつち)の
迷いの道を人はゆく
栄華を誇る塵の世に
誰(た)が高楼の眺めぞや
九、
功名何ぞ夢の跡
消えざるものはただ誠
人生意気に感じては
成否を誰かあげつらう
十、
やめよ離騒(りそう)の一悲曲
悲歌慷慨(こうがい)の日は去りぬ
われらが剣(つるぎ)今こそは
廓清(かくせい)の血に躍るかな

昭和五年
作詞者の三上卓は海軍少尉で、昭和5年5月24才の時佐世保でこの歌を発表した。以来、昭和7年の5.15事件、昭和11年の2.26事件に連座した青年将校などが歌い継いだ。
 紀元前3~4世紀頃、中国は戦国時代にあった。当時揚子江流域一体を領土としていた楚に、屈原という人物がいた。詩人であり政治家でもあった屈原は、王への進言をことごとく側近に邪魔され、遂には失脚させられて追放される。しかし屈原は他の国に仕えることをせず、祖国の滅亡の危機を憂いながら洞庭湖畔汨羅の川に身を投げた。楚はやがて秦に滅ぼされ、以来屈原は「不運の愛国者」の代名詞となった。
 この歌はこの故事を冒頭に引いている。ちなみに、端午の節句の「ちまき」は彼に由来する。 

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二・二六決起から77年 坂井直・陸軍中尉(刑死)の墓参 敷島通信25/02/26
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-2076.html

憂國の刑死者・自決者(三重県北勢地区・四日市)
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-1161.html

2・26決起 昭和11年2月26日
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-1953.html

二・二六事件 坂井直中尉(銃殺刑死)、森田必勝烈士(三島由紀夫烈士と共に自衛隊で割腹自決)のお墓参り
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-1074.html

「青年日本の歌」皇紀2673年11月25日 森田必勝烈士 没後43年・祥月命日 墓前にて(敷島通信)
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-2089.html

「青年日本の歌」「三島由紀夫烈士 檄文」皇紀2674年11月25日 森田必勝烈士 没後44年・祥月命日 墓前にて(敷島通信 26/11/25)
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-2118.html

楯の会 森田必勝烈士 自決没後45年・祥月命日 墓参 「青年日本の歌」奉唱 「三島由紀夫烈士 檄文」奉読 皇紀2675年・平成27年11月25日 (三重県四日市市大治田町) 敷島通信
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二・二六決起
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三島由紀夫が生きた時代 楯の会と森田必勝 単行本(ソフトカバー) – 2015/10/20
村田春樹 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%9F%E6%99%82%E4%BB%A3-%E6%A5%AF%E3%81%AE%E4%BC%9A%E3%81%A8%E6%A3%AE%E7%94%B0%E5%BF%85%E5%8B%9D-%E6%9D%91%E7%94%B0%E6%98%A5%E6%A8%B9/dp/4792605326
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村田春樹氏
昭和44年 早稲田大学高等学院卒業
昭和48年 早稲田大学第一政治経済学部政治学科卒業
早稲田大学在学中 楯の会隊員




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