(動画)回天 黒木博司少佐の妹さん(第47回 楠公回天祭 直会にて)

回天 黒木博司少佐の妹さん(第47回 楠公回天祭 直会にて)
http://www.youtube.com/watch?v=Vbj-ODHFkio



平成22年9月5日 第47回 楠公回天祭(なんこうかいてんさい)が岐阜県下呂市・信貴山、楠公社・回天の碑前で執­り行われました。その後に行われた直会の場で黒木博司少佐の妹さんが挨拶をされました­。

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人間魚雷・回天の発案・創始者、黒木博司海軍少佐(岐阜県下呂出身、現黒木医院)は昭­和19年9月7日、山口県周南市徳山湾大津­島での人間魚雷・回天の 訓練中に殉職(享年22歳)されました。

平成22年9月5日(日曜日)に岐阜県下呂市の信貴山に鎮座する楠公社前で、47回目­の回天烈士の慰霊祭が厳かに執り行われました。

黒木博司少佐の妹さん、回天搭乗員の方々3名も参加されておられました。


タグ:
天皇陛下萬歳 菊水 楠木正成 楠公 楠公社 非理法権天 七生報国 尊皇 殉皇 人間魚雷 回天 特別攻撃隊 特攻隊 特攻 散華 黒木博司 海軍 少佐 殉職 昭和19年 9月7日 大津島 大東亜戦争 アジア解放 聖戦 第47回 楠公回天祭 慰霊祭 岐阜県 下呂 温泉 信貴山
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(動画)第47回 楠公回天祭(黒木博司少佐、岐阜県下呂・信貴山22/09/05)

第47回 楠公回天祭(黒木博司少佐、岐阜県下呂・信貴山22/09/05)
http://www.youtube.com/watch?v=DNvQb0_woI


平成22年9月5日 第47回 楠公回天祭(なんこうかいてんさい) 岐阜県下呂市 信貴山 楠公社・回天の碑前にて

人間魚雷・回天の発案・創始者、黒木博司海軍少佐(岐阜県下呂出身、現黒木医院)は昭和19年9月7日、山口県周南市徳山湾大津島での人間魚雷・回天の 訓練中に殉職(享24歳)された。

平成22年9月5日(日曜日)に岐阜県下呂市の信貴山に鎮座する楠公社前で、47回目の回天烈士の慰霊祭が厳かに執り行われた。

黒木博司少佐の妹さん、回天搭乗員の方々3名も参加されておられました。




タグ:
天皇陛下萬歳 菊水 楠木正成 楠公 楠公社 非理法権天 七生報国 尊皇 殉皇 人間魚雷 回天 特別攻撃隊 特攻 散華 黒木博司 海軍 少佐 殉職 昭和19年 9月7日 大津島 大東亜戦争 アジア解放 聖戦 第47回 楠公回天祭 慰霊祭 慰霊碑 回天の碑 岐阜県 下呂 温泉 水明館 信貴山 温泉寺 平成22年 9月5日 杉田謙一

靖國神社の桜吹雪(平成22年春 撮影Mさん)

写真
             (撮影 Mさん)


この様な靖國神社の桜吹雪は見たことがありません。

今まで、靖國神社は何度も、というより何度訪れたか分からないくらい参拝させて頂いております。

私は本殿と本殿横の明治維新で亡くなられた維新の志士が祭られている元宮を参拝させて頂いております。

20歳くらいの時には、人間魚雷・回天が屋外に展示してあったので、注意を受ける行為ですが、回天烈士が大東亜戦争で回天基地から特攻攻撃出撃時に伊号潜水艦上の回天の上で日本刀を振って出港して行かれたことに誘導され、ついつい衝動に駆られ、手製の七生報國の鉢巻を締めて、回天の上に乗って、写真を撮ったことがありました。


写真
回天上で軍刀、桜を振り見送りに応える


回天特別攻撃隊
http://www.youtube.com/watch?v=RxmIzNb3Wh8



靖國神社http://www.yasukuni.or.jp/precincts/index.html

・靖國神社の由緒
靖国神社は、明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社が始まりで、明治12年(1879)に「靖国神社」と改称されて今日に至っています。

靖国神社は、明治7年(1874)1月27日、明治天皇が初めて招魂社に参拝された折にお詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。

「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。

靖国神社には現在、幕末の嘉永6年(1853)以降、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの国難に際して、ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされています。


・本殿
神霊が鎮まるところで、現在の本殿は明治5年(1872)に建てられました。
昭和61年(1986)から3年をかけて解体修理が施され、平成元年(1989)に当時の姿のまま建て替えられました。


・元宮
この小さな社は、明治維新のさきがけとなって斃れた志士の霊を祀るため同士によって京都にひそかに建てられたもので、70年後の昭和6年(1931)に靖国神社に奉納され、この場所に移されました。
国を守るために尊い生命を捧げられた方々の神霊を祀る靖国神社の前身となったことから、「元宮」と呼ばれています。



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東京で桜満開 平年より4日早く
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1162160&media_id=2

(動画)回天特別攻撃隊

(動画)回天特別攻撃隊

http://video.mixi.jp/view_video.pl?owner_id=7790496&video_id=638642

http://video.mixi.jp/view_video.pl?owner_id=7790496&video_id=745328

http://video.mixi.jp/view_video.pl?owner_id=7790496&video_id=745404

http://video.mixi.jp/view_video.pl?owner_id=7790496&video_id=785909

http://video.mixi.jp/view_video.pl?owner_id=7790496&video_id=799036

(追記)
回天特別攻撃隊菊水隊


人間魚雷回天

(追記ここまで)


回天特別攻撃隊の殉國の諸先輩方の鉢巻きに書かれている
「七生報國」(しちしょうほうこく)の由来。

1336年5月25日(現在の暦では7月12日)、楠木正成(くすのき まさしげ)公は、手兵700で会下山に陣を取りました。

主力の新田軍は和田岬に陣を敷いて足利方の海上軍に備えましたが、敵の策略のために、大楠公の軍と分断されてしまいました。

 この日、楠木正成公は天下の逆賊・足利高氏の弟、直義の大軍と16度にわたる激しい合戦を交えますが、大軍の前には、さすがの楠木軍も善戦虚しく、味方はわずか73人にまでになってしまいます。

もはやこれまでと覚悟された楠木正成公は、弟の正季(まさすえ)卿らご一族と

「七生報國」(七度生まれて國に報いる・朝敵を滅ぼす)

を誓って殉節され、その偉大な生涯を閉じられました。

後醍醐天皇のため、またよりよい国づくりのために力を尽くされたご生涯でした。

そのような楠木正成公の忠義を讃えるために、明治天皇様のご沙汰により、湊川神社が創建されました。

(湊川神社のHPより引用 編集)

楠木正成公の御墓(水戸光圀公が建立、現在の湊川神社境内に鎮座)を維新の志士が拝し、明治維新を成し遂げられました。

湊川神社の「大楠ご墓所」の説明

 元禄五年(一六九二年)、水戸光圀公(義公)は、家臣佐々介三郎宗淳(助さん)をこの地に遣わして碑石を建て、光圀公みずから表面の「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字を書き、裏面には明の遺臣朱舜水の作った賛文を岡村元春に書かせて、これに刻ませました。この墓碑の建立によって大楠公のご盛徳は大いに宣揚されるとともに、幕末勤王思想の発展を助け、明治維新への力強い精神的指導力となったのです。すなわち幕末から維新にかけて、頼山陽・吉田松陰・真木保臣・三条実美・坂本龍馬・高杉晋作・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文等々は、みなこの墓前にぬかづいて報国の至誠を誓い、国事に奔走したのです。

http://www.minatogawajinja.or.jp/guidance07.html

「吉田松陰先生」

私は、かつて東方へ遊行し、三度も湊川を通ったが、そのさい、楠公の墓に参拝し、涙が落ちるのをとめることができなかった。その碑の背面に、明の朱舜水が書いた文を読んで、また涙した。(『日本の名著・吉田松陰』中央公論社) 

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フォト:「回天基地」 大津島(おおづしま)
http://mixi.jp/view_album.pl?id=4092861&owner_id=7790496


「回天特別攻撃隊 大津島基地」

・周南市回天記念館 山口県周南市大津島1960番地 電話0834-85-2310

・周南市立養浩館(資料館) 館長 高松 工(たくみ)
周南市大津島1960 電話0834-85-2030

大津島http://www.kanko-shunan.com/html/ootujima/ootujima.html#kiti
大津島巡航(新時刻表・運賃)http://www.kanko-shunan.com/html/ootujima/ootusimadia.pdf


回天特別攻撃隊の慰霊祭は11月の第二日曜日

養浩館は旧士官宿舎跡にある。

映画「出口のない海」のモデルは和田 稔 回天烈士(静岡県出身、中尉、予備学生4期・東京大、光基地、戦没海域・光基地沖訓練中、戦没年月日・昭和20年7月25日、戦没年齢・23歳)

仁科関夫中尉(菊水隊 昭和20年11月20日ウルシー環礁にて散華)は小学校は光の室積(むろずみ)で中学は大阪の天王寺中。

父は室積女子師範(現・山口大学教育学部)の校長、母は中学の教師。

仁科中尉の幼少時を知っている人は養浩館に来て仁科中尉の事を「おぼっちゃま」と言う。

黒木大尉は気性が荒い。仁科中尉は柔和な性格。

短刀伝達式http://video.mixi.jp/view_video.pl?video_id=745328&owner_id=7790496(mixi動画)は今の回天記念館の前で行われた。

菊水隊などの名前は隊員達が自分達で決めた。

回天隊員は吉田松陰先生を崇拝していた。

平成10年に回天記念館は回天顕彰会の運営から市の直轄運営に変わった。

養浩館は回天顕彰会の運営で旧士官宿舎跡にある。

「平和教育に則って説明をしてくれ」との市からの要請に「自分なりの説明の仕方がある。」という事で元館長の高松 工 氏は30年務めた回天記念館館長を止めた。

以前は大きな軍艦旗(大東亜戦争当時より)を回天記念館に掲げていたが、市の直轄運営になってからダメになって、現在は日章旗が掲げられている。

回天慰霊祭の時は現在も慰霊という事で軍艦旗を掲げる。

以前は一年おきに神式、仏式で慰霊祭を執り行っていたが、現在は献花のみの慰霊祭となっている。

(上記は養浩館に40年務めている女性の方の説明)

回天隊員は全て志願で、当時の若者が國難を何とかしなければならないとの救國の至情に駆られての行動であった。菊水隊の何人かは同期である(菊水隊の写真を指して、名前を言ってました)。(養浩館館長 高松 工 氏 85歳(平成19年8月現在)談)

ここでも文部科学省・市の教育委員会の戦後自虐史観に基づく施策の影響が顕著に現れているように思えた。

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批判続出 人間魚雷キューピー
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1083591&media_id=2

回天特別攻撃隊 大津島(おおづしま)

回天特別攻撃隊 大津島(おおづしま)


回天特別攻撃隊 大津島基地(山口県周南市)に昨日(平成19年8月24日)行ってきました。

南洋に散華、また訓練中に殉職された回天烈士(17歳から27歳)の御霊に、一身を挺し日本國を御護り頂きました事に深い感謝の念を表し、慰霊碑を拝させて頂きました。

魚雷発射試験場手前の海に手を入れ回天烈士に感謝を申し上げさせて頂きました。

http://mixi.jp/view_album.pl?id=4092861&mode=photo(mixiフォト)


7790496_378774811_1large.jpg
出撃前の短刀伝達式で池淵信夫中尉に手渡された短刀「護國」

7790496_378774810_1large.jpg
映画「出口のない海」に使われた回天内部(レプリカ、実際より25cm直径が大きい)

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黒木博司大尉(訓練中に殉職) 自筆手紙

7790496_378774808_1large.jpg
菊水隊 仁科関夫中尉 自筆手紙

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回天烈士 左上から黒木大尉・樋口孝・・・・

7790496_378774806_1large.jpg
回天記念館正面(道の両端には回天烈士の氏名・出身県が刻まれている石碑がある)

7790496_378774805_1large.jpg
魚雷発射試験場(建物下に魚雷発射の為の溝が二つあるが、回天は大きいのでここに入らない)

7790496_378774804_1large.jpg
回天降下クレーン跡(ここにあったクレーンで回天を海に降ろして訓練をした)

7790496_378774803_1large.jpg
魚雷発射試験場からトンネルを望む

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魚雷発射試験場

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回天を運んだトンネル・魚雷発射試験場に向かって(当時は線路があった) 

7790496_378774800_1large.jpg
魚雷発射試験場

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大津島 馬島

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慰霊碑  黒木博司大尉の書

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人間魚雷 回天

7790496_378774796_1large.jpg
慰霊碑


「回天基地」 大津島(おおづしま)
平成19年・2007年8月24日 07:49
「回天特別攻撃隊 大津島基地」

・周南市回天記念館 山口県周南市大津島1960番地 電話0834-85-2310

・周南市立養浩館(資料館) 館長 高松 工(たくみ)
周南市大津島1960 電話0834-85-2030

大津島http://www.kanko-shunan.com/html/ootujima/ootujima.html#kiti
大津島巡航(新時刻表・運賃)http://www.kanko-shunan.com/html/ootujima/ootusimadia.pdf


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回天特別攻撃隊の慰霊祭は11月の第二日曜日

養浩館は旧士官宿舎跡にある。

映画「出口のない海」のモデルは和田 稔 回天烈士(静岡県出身、中尉、予備学生4期・東京大、光基地、戦没海域・光基地沖訓練中、戦没年月日・昭和20年7月25日、戦没年齢・23歳)

仁科関夫中尉(菊水隊 昭和20年11月20日ウルシー環礁にて散華)は小学校は光の室積(むろずみ)で中学は大阪の天王寺中。

父は室積女子師範(現・山口大学教育学部)の校長、母は中学の教師。

仁科中尉の幼少時を知っている人は養浩館に来て仁科中尉の事を「おぼっちゃま」と言う。

黒木大尉は気性が荒い。仁科中尉は柔和な性格。

短刀伝達式http://video.mixi.jp/view_video.pl?video_id=745328&owner_id=7790496(mixi動画)は今の回天記念館の前で行われた。

菊水隊などの名前は隊員達が自分達で決めた。

回天隊員は吉田松陰先生を崇拝していた。

平成10年に回天記念館は回天顕彰会の運営から市の直轄運営に変わった。

養浩館は回天顕彰会の運営で旧士官宿舎跡にある。

「平和教育に則って説明をしてくれ」との市からの要請に「自分なりの説明の仕方がある。」という事で元館長の高松 工 氏は30年務めた回天記念館館長を辞めた。

以前は大きな軍艦旗(大東亜戦争当時より)を回天記念館に掲げていたが、市の直轄運営になってからダメになって、現在は日章旗が掲げられている。

回天慰霊祭の時は現在も慰霊という事で軍艦旗を掲げる。

以前は一年おきに神式、仏式で慰霊祭を執り行っていたが、現在は献花のみの慰霊祭となっている。

(上記は養浩館に40年務めている女性の方の説明)

回天隊員は全て志願で、当時の若者が國難を何とかしなければならないとの救國の至情に駆られての行動であった。菊水隊の何人かは同期である(菊水隊の写真を指して、名前を言ってました)。(養浩館館長 高松 工 氏 85歳 談)

ここでも文部科学省・市の教育委員会の戦後自虐史観に基づく施策の影響が顕著に現れているように思えた。


(追記)



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