非理法権天 ひりほうけんてん (敷島通信)

敬神尊皇 七生報國 非理法権天       身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

鎮魂  

皇紀2671(平成23)年12月8日、大東亜聖戦開戦の日、國憂ふ青年、杉田智(さとし)烈士(享年22)が石川県護國神社境内、清水澄博士顕彰之碑の前で自決された。


gokoku-isikawa03.jpg
清水澄博士顕彰之碑

http://www.youtube.com/watch?v=cPkAPiJqwlg



皇紀2671(平成23)年12月8日、國憂ひ石川県護國神社で自決された青年、杉田智(さとし)烈士

某方に伺いますと、深く真一文字に割腹の後、頸動脈を切断し自決されたとのことでございました。

その瞬間の真心、至誠、内なる魂の叫びはいかばくであったかは、推察するに余りあるところでございます。

尊皇至誠、國體護持、忠烈勇武、神州日本を守護せんと一身を挺し自決された壮挙に深い敬意を表します。

杉田智烈士の御魂、日本民族の魂に共鳴、魂を振わせ、魂魄、幽界より神州日本、日本民族を御守護垂れ給わんことを謹んで御祈念申し上げます。

杉田智烈士の御魂、靖からんことを御祈り申し上げます。


石川県護國神社
http://ishikawagokoku.or.jp/
↓杉田謙一氏ブログより転載
http://plaza.rakuten.co.jp/seimeisugita/diary/201112120000/
世を憂い自決したあたら惜しき学生よ 安らかなれ

開戦70年の当日 石川護国神社で割腹自決の青年について

金沢大学4年生の学生の自決について、わかった範囲において記載する。

青年の名は杉田智(さとし)氏。平成元年4月5日生まれ。北海道釧路出身。金沢大学人間社会学域法学類にて学ぶ。

安全保障問題のゼミにおいては、日本の安全保障について力説されていたとの事。

12月8日九時四十五分ころ発見・収容される。場所は金沢市石引きの石川護国神社の境内。清水澄先生碑の前。

服装は黒いスーツに白いワイシャツ。腹部を切り、首を切られたもよう。

隣にはバッグ。その中に身分証明書をいれ、その上に、雨にぬれないようにして日章旗が置かれていたと聞く。

清水澄博士 は大日本帝国憲法に殉死された愛国者。

明治元年金沢市に生まれ、東京帝國大学法科を卒業後、 学習院大学教授となり、明治三十八年法学博士。

枢密院議長の要職をになわれ,帝国憲法の否定に抗議され入水自殺された方。

この石川護国神社には大東亜戦争聖戦大碑が国思う有志にて設立されている。

作法といい、場所、日にちといい、現下日本に対して憂国の思いにて自決された事は疑いようもない。

血が飛び散り域内が穢れないようにブルーシートを敷くなどの心配りもあったという。

名を聞き、驚いた。わたしと同じ姓をもたれる方とは。

昨日までに、清水先生の碑の移転問題がありそれに対する抗議かと推測される方もいたが、遺書はあると言うものの発表されていないために主張内容は不明のままであります。

警察は単なる自殺として処置しようとしているとしか思えない。

こうした青年の魂からの叫びを世に問わないで葬ることがどうして出来ようか。

お名前の公表はどうすべきか、友と議論しましたが、行為の事実が闇から闇へと消えさせられるのは、自決せる杉田智氏の本意ではなかろうと判断しました。

遺書はもし知りえてもプライベートになることであり、ご遺族の同意無き段階では慎むべきと判断します。

改めて心より哀悼の意を表し、御霊の靖からん事をいのります。

↑転載ここまで


自決趣意書などの詳細続報を待ちたいと思います。

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我が国のかたち
http://ameblo.jp/blogdetox/entry-11104727612.html
神社で男性自殺か
8日午前9時45分ごろ、金沢市石引4丁目の石川護国神社を訪れた男性が、境内の石碑前であおむけに倒れている男性を見つけ、近くにいた土木作業員を通じて110番した。金沢中署員が死亡を確認した。
遺体のそばには日章旗が敷かれていた。金沢中署は状況などから自殺の可能性が高いとみて、身元の確認を進めている。同署によると、男性は黒っぽいスーツを着用、白いワイシャツのボタンを外し、腹など数カ所に刺し傷があった。ナイフが近くに落ちていた。(共同)
2011年12月8日13時3分 日刊スポーツ

石川護国神社で自殺か
8日朝、金沢市の石川護国神社で男性が血を流して死亡しているのが見つかりました。警察は自殺ではないかとみて調べています。8日午前9時45分ごろ、金沢市の石川護国神社の境内で「人が亡くなっている」と近くで工事をしていた作業員から通報がありました。警察がかけつけたところ、境内の石碑近くで20代とみられる男性が血を流して仰向けに倒れ、腹や首など数か所に刃物で刺したような傷が確認されました。男性はすでに死亡していて、7日夕方から8日未明にかけて死亡したとみられます。近くにはナイフのような刃物のほか、日の丸の国旗などが置かれていて、遺体の下にはビニールシートが敷かれていたということです。遺書は今のところ見つかっていませんが、警察は現場の状況などから男性が自殺を図ったのではないかとみて調べています。
2011/12/08 Thu 18:03 石川テレビ

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占領憲法に体当たりした自決・・・清水澄博士の碑の前で・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshimizushrine/61605415.html
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清水 澄博士顕彰之碑
http://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/0815-kenpo.htm
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清水澄博士 帝国憲法に殉死
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/21994426.html
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枢密院議長 清水澄博士の思い・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/sitiyu33/12616494.html
われ楚の名臣屈原にならって自決し幽界より國體を護らん

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屈原http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%88%E5%8E%9F
頃襄王の令尹(丞相)に屈原が嫌いぬいた子蘭がなったために屈原は政界から再び追われて、江南に左遷された。その後、秦により楚の首都郢が陥落した事で楚の将来に絶望して、石を抱いて汨羅江(べきらこう)に入水自殺した。後に屈原の無念を鎮める為、また、亡骸を魚が食らわないよう魚のえさとしても人々が笹の葉に米の飯を入れて川に投げ込むようになったと言われ、これがちまきの由来とされる。

青年日本の歌(ニ・ニ六決起 自決・刑死の憂國烈士 鎮魂)
http://www.youtube.com/watch?v=aOxBzEoW0Dg
青年日本の歌   作詞曲 三上卓 
汨羅の淵に波騒ぎ 巫山の雲は乱れ飛ぶ 混濁の世に我れ立てば 義憤に燃えて血潮湧く

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来島恒喜
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E5%B3%B6%E6%81%92%E5%96%9C
大隈重信の条約改正案(加筆:不平等条約成立策動)に反対し、玄洋社を退社。

大隈を暗殺するべく、1889年(明治22年)10月18日、外務省からの帰路にあった大隈に、彼の乗る馬車ごと爆弾を投げつけ、右足切断の重傷を負わせた。

来島は爆弾が炸裂すると同時に、その場で短刀で喉を突いて自害した。享年31歳。

この事件によって大隈の条約改正案は破棄された。

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大橋正文烈士顕彰
http://shikisima.exblog.jp/2593113/  昭和四十九年の二月十一日紀元節、午後十時半頃、靖国神社拝殿前で元国士舘大学生が国を憂いて、三島由紀夫烈士に続くとして割腹自決を遂げたことは余り知られていない。かくいう自分も、先日そのことに関する本を職員の先生いただくまで知らなかった。
 これが先生より頂いた本だ。この本は大橋烈士の自決を受けて翌年の紀元節を期して国士舘大学が発行した冊子で、発行者名は「国士舘大学有志」「大橋正文君遺徳顕彰会」となっている。まえがきを、当時の柴田梵天総長が烈士のご両親様に宛てた形式で記している。

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清水澄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%BE%84
清水 澄(しみず とおる、1868年9月27日(慶応4年8月12日) - 1947年(昭和22年)9月25日)は、日本の憲法・行政法学者。学位は、法学博士。帝国学士院会員。枢密院議長。

人物 1868年(慶応4年)、石川県金沢市に生まれる。

東京帝国大学法科を卒業。ドイツへ留学後、学習院教授となる。1905年(明治38年)、法学博士号を取得する。次いで慶應義塾大学法学部教授(憲法・行政法担当)。1926年(大正15年)2月27日帝国学士院会員。

宮内省及び東宮御学問所御用掛となり、大正天皇、昭和天皇に憲法学を進講した。行政裁判所長官、枢密院顧問官・副議長を経て、敗戦後、1946年(昭和21年)6月13日最後の枢密院議長に任ぜられる。

枢密院が廃止され、1947年(昭和22年)5月3日に日本国憲法が施行された後の同年9月25日、日本の国体の危機を憂い、熱海錦ヶ浦海岸から投身自殺を遂げた。

遺言に当たる「自決ノ辞」には、

新日本憲法ノ發布ニ先ダチ私擬憲法案ヲ公表シタル團體及個人アリタリ其中ニハ共和制ヲ採用スルコトヲ希望スルモノアリ或ハ戰爭責任者トシテ今上陛下ノ退位ヲ主唱スル人アリ我國ノ將來ヲ考ヘ憂慮ノ至リニ堪ヘズ併シ小生微力ニシテ之ガ對策ナシ依テ自決シ幽界ヨリ我國體ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈願セント欲ス之小生ノ自決スル所以ナリ而シテ自決ノ方法トシテ水死ヲ擇ビタルハ楚ノ名臣屈原ニ倣ヒタルナリ

元樞密院議長  八十翁 清水澄  法學博士  昭和二十二年五月 新憲法實施ノ日認ム

追言 小生昭和九年以後進講(宮内省御用係トシテ十數年一週ニ二回又ハ一回)シタルコト從テ龍顔ヲ拝シタルコト夥敷ヲ以テ陛下ノ平和愛好ノ御性質ヲ熟知セリ從テ戰爭ヲ御賛成ナカリシコト明ナリ

と記し、大日本帝国憲法に殉じ、自殺をすることと、その自殺が支那の戦国時代の楚国の屈原が汨羅(べきら)の淵に投身自決した故事に倣ったことが記されている。

そして、公人としての最後の責任を全うするために、自らの想いとは別に最後の枢密院議長として新憲法の審議に尽力したのである。

金沢市の石川県護國神社には、「清水澄博士顕彰碑」がある。

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大東亜聖戦大碑
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E8%81%96%E6%88%A6%E5%A4%A7%E7%A2%91
大東亜聖戦大碑(だいとうあせいせんたいひ)は、日本をまもる会(日本会議の前身の日本を守る国民会議とは別の団体)によって2000年8月4日石川県護国神社の参道に建てられた石碑である。

日本をまもる会内に事務局が設けられ、本会が中心となって1996年末に「大東亜聖戦大碑建立委員会」を設立した。雑誌「正論」(産経新聞社発行)の意見広告(「大東亜聖戦大碑建立に赤誠を!!」)で募金を呼びかけた。

毎年、8月初めの日曜日に石川護国神社、大東亜聖戦大碑護持会、大東亜青年塾、日本をまもる会などの主催(後援・北国新聞社、テレビ金沢、エフエム石川)で大東亜聖戦祭が開催される。


建立委員会 委員長 草地貞吾
副委員長 米沢外秋、名越二荒之助、中村粲
顧問・委員 板垣正、奥野誠亮、小堀桂一郎、清瀬信次郎、冨士信夫、小田村四郎、小室直樹、他
実行委員長 中田清康(日本をまもる会会長)

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草地貞吾
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E5%9C%B0%E8%B2%9E%E5%90%BE

草地 貞吾(くさち ていご、1904年5月28日 - 2001年11月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。

旧制大分県立宇佐中学校出身。陸士39期の同期は、陸軍省軍務局軍事課高級課員で戦後陸将・陸上幕僚副長となる高山信武大佐や、南方軍第2課長の矢野連大佐、第53軍参謀の大橋武夫がいる。第106師団では、成富政一陸軍大佐と同期。

年譜 1904年(明治37年) - 大分県宇佐市に生まれる。
1927年(昭和2年) - 陸軍士官学校卒業(39期)・陸軍歩兵少尉任官。
1930年(昭和5年) - 陸軍歩兵中尉に任官。
1934年(昭和9年) - 陸軍大学校に入学。
1935年(昭和10年) - 陸軍歩兵大尉に任官。
1937年(昭和12年) - 陸軍大学校卒業(恩賜(優等))し、青森歩兵第5連隊中隊長に就任。
1938年(昭和13年) - 第106師団参謀。
1939年(昭和14年)3月 - 陸軍省軍務局課員。
1939年(昭和14年)8月 - 陸軍歩兵少佐に任官。
1941年(昭和16年) - 支那派遣軍参謀。
1942年(昭和17年) - 陸軍歩兵中佐に任官。
1943年(昭和18年) - 関東軍作戦主任参謀。
1945年(昭和20年)6月10日 - 陸軍歩兵大佐に任官。
1945年(昭和20年)9月6日 - ソ連シベリア抑留。
1949年(昭和24年) - 重労働25年の判決を受ける。
1956年(昭和31年)12月26日 - 復員。
1964年(昭和39年) - 日本大学歴史学科卒業。
1966年(昭和41年) - 京都産業大学寮監長
1967年(昭和42年) - 国士舘高校校長。
1973年(昭和48年) - 朔北会会長
1977年(昭和52年) - 日本郷友連盟副会長
1983年(昭和58年) - 全日本銃剣道連盟会長(銃剣道範士八段)。
2001年(平成13年) - 死去。
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