非理法権天 ひりほうけんてん (敷島通信)

敬神尊皇 七生報國 非理法権天       身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

火炎瓶攻撃を受けた時の留意点  


火炎瓶攻撃を受けた時の留意点

 

某氏から、火炎瓶攻撃を受けた時の留意点を伺った。

なるほどと思うものであった。

保守運動、民族運動、敵国討伐運動、反日討伐運動、極左・左翼討伐運動などにかかる最前線での街頭活動、抗議活動、討伐活動等を行う方々は知っておいた方がいいと思った。

火炎瓶を投げ付けられた時にその火炎の中、あるいは付近で、息を絶対に吸ってはならないということであった。

息を吸うことで、その高熱の空気で、肺がやられてだめになるとのことであった。

火炎瓶攻撃を受けた時、絶対に息をしてはならない、決して息を吸ってはならない、その場から即座に離れる時でも間違っても息を吸ってはならない。

とにかく息を止めて、即座に火炎瓶が燃焼している現場から立ち去る。

極めて重要なことであると思った。

対支那戦線、対朝鮮戦線、対反日戦線、対左翼戦線に身を置く方々にとっては、基本的に押さえておくべき知識であると感じた。

火炎瓶の投射を受ける→息を止める→即座に立ち去る

この基本行動は必ず押さえておきたいと感じた。

(追記)
火炎瓶を投下等で、足元に火が付いた時の対処法
してはならないこと・・・火のついたまま走る、そのまま歩く。
対処行動・・・その場が火中なら、息を決して吸わずに移動後、倒れて、身体を横に回転させ消火に努める。火を消してもらう。
その場が、火中でない時は、その場で倒れて、身体を横に回転させ消火に努める。火を消してもらう。
走って移動すると、火が足元から上に燃え移ってくるので危険であるとのこと。
(ソース:某氏より)
(追記ここまで)



火炎瓶攻撃を行った、反国体勢力、反日本勢力、反日本民族勢力である支那人、朝鮮民族、極左・過激派ら



靖国神社放火も認める 日本大使館に火炎瓶投げつけた中国人
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/korea/545686/

在日のタブー☆朝鮮進駐軍☆について【どうか見てください】2/2
http://www.youtube.com/watch?v=url_4lRg8Sk2/2
 
 
38 - ひめゆりの塔事件 - 1975
http://www.youtube.com/watch?v=uJkPdpJ-qYs

 
occupation of narita airport 成田空港管制塔占拠事件
http://www.youtube.com/watch?v=NOHYjhJzN3s&feature=relatedoccupation


1985年10・20三里塚 中核派VS機動隊
http://www.youtube.com/watch?v=HJoFM8ynyMQ&feature=related


- 全共闘 東大安田講堂事件 - 1969
http://www.youtube.com/watch?v=3itnXEr7kLM&feature=related23


過激派 闘争
http://www.youtube.com/watch?v=oIwCCuoWrJY


 
日本人の記憶から特亜工作員により消された事実【朝鮮進駐軍】 ③
http://81.xmbs.jp/piroshigogo-232111-ch.php
■島津三条工場事件(1952 年6月10日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%B7%A5%E5%A0%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6
1952年6月10日、朝鮮人約50名が、京都市中京区にある島津三条工場に押しかけ、破防法反対のアジ演説を行ったので、工場側の要請を受けた警察官約15名が現場に急行、50代くらいの朝鮮人1名を検挙、京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。

同パトカーが春日通三条にさしかかった際、付近にいた朝鮮人約100名が前に立ちふさがり、車内に 火炎瓶を投げ込み、乗っていた8名の警察官に重軽傷を負わせ、検挙者を逃走させた。


■吹田*枚方事件(1952 年6月24日~25 日)
吹田事件https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%B9%E7%94%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6
牧方事件https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%9A%E6%96%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6
6・25朝鮮戦争前夜祭として、待兼山に参集した民戦系学生等約1100名は、山中に竹槍を用意し、二隊に分かれて伊丹駐留軍宿舎を襲撃したが、

警備体制に圧倒されて目標を変更し、一隊は吹田操車場に駐留軍貨車を物色したがこれも発見できなかったため、

再び吹田駅に引き返す途中、警官隊と衝突し、拳銃2丁を奪い、

さらに行進中交番2ヶ所および日本国粋党の笹川良一宅を火炎瓶・竹槍で襲撃した。

そこへたまたま出会わした駐留軍司令官クラーク准将の自動車に火炎瓶を投げ込み、顔面に火傷を与えた。

また吹田駅周辺においても、デモ隊が停車中の米原発大阪行の通勤電車に飛び乗ってそこから拳銃を発砲したり、火炎瓶

・竹槍などをもって抵抗したために、警察側も応戦し、両方に多数の負傷者を出した。

一方、朝鮮人を含む9人の遊撃隊は、枚方市の旧陸軍枚方工廠のポンプ室に侵入し、時限爆弾を仕掛けて爆破させた。

これに呼応して、翌日朝、同市の小松正義(旧陸軍枚方工廠払い下げの取りまとめ役)宅に火炎瓶を投げ入れて放火しようとした。

逃走途中に警官隊に発見され、激しく抵抗したため警官隊は発砲した。この事件での検挙者は113名であった。


■血のメーデー事件
血のメーデー事件(ちのメーデーじけん)は、1952年(昭和27年)5月1日(木曜日)に東京の皇居外苑で発生した、デモ隊と警察部隊とが衝突した騒乱事件である。事件は一部の左翼団体が暴力革命準備の実践の一環として行われたものと見られている。戦後の学生運動で初の死者を出した。
暴徒と警察官
GHQによる占領が解除されて3日後の1952年(昭和27年)5月1日、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「人民広場(注:皇居前広場)の開放」を決議していた。本来のデモ隊の解散予定であった日比谷公園から北朝鮮旗を翻した朝鮮人を含む一部のデモ隊がそのまま皇居前広場に乱入するなど暴徒化して混乱は午後5時半ごろまで続いた。
この日、行進を行ったデモ隊の内、日比谷公園で解散したデモ隊の一部はその中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出て、交差点における警察官の阻止を突破して北に向い、その途中では外国人(駐留米国軍人)の自動車十数台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら無許可デモ行進を続け、馬場先門を警備中の約30名の警察官による警戒線も突破して使用許可を受けていなかった皇居前広場になだれ込んだ。これに対し警視庁は各方面予備隊に出動を命じた。
乱入したデモ隊は二重橋前付近で警備していた警察官約250名に対し指揮者の号令で一斉に投石したり、所持していた棍棒、竹槍で執拗な攻撃を繰り返して警察官1名を内堀に突き落とし、他の多くの警察官も負傷する状態に至り警察部隊は止むを得ず後退を始めた[1]。応援の予備隊が到着してその総数は約2,500名となったがデモ隊は数を増して約6,000名となった上、組織的な攻撃も激しくなった[1]。警察部隊は催涙弾を使用したが効果は上がらず、警察官の負傷者が増加したため、身体・生命の危険を避ける目的で止むを得ず拳銃を発砲し、ようやくデモ隊は後退を始めた。
この間にもデモ隊は警察官3名を捕え、棍棒で殴打して重傷を負わせ外堀に突き落とし、這い上がろうとする彼らの頭上に投石した。同時に別のデモ隊は外国人自動車等に棍棒、石ころを投げ、駐車中の外国人自動車十数台を転覆させて火を放ち、炎上させた。デモ隊と警察部隊の双方は激しく衝突して流血の惨事となった。デモ隊側は死者1名[3]、重軽傷者約200名、警察側は重軽傷者約750名(重傷者約80名が全治三週間以上、軽傷者約670名。さらに1956年1月に頭部打撲の後遺症で法政大学学生1名が死亡)、外国人の負傷者は11名に及んだ。
当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった。出動した警視庁予備隊は後の機動隊であり、警察予備隊とは異なる。


■新宿駅事件(1952年6月25日
http://siryou.wiki.fc2.com/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85%E4%BA%8B%E4%BB%B6%2528%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85%E7%81%AB%E7%82%8E%E3%81%B3%E3%82%93%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
国際平和デー閉会後、朝鮮人約3000名が新宿駅東口に到着し、駅玄関や駅前派出所に向かって火炎瓶を投げ込んで、窓ガラスや電線等を焼失させた。

そのため、警官隊約600名が催涙ガスを使ってデモ隊を押し返した。

また、デモ隊の一部は新宿駅7番線ホームに入って、そこにいたオーストラリア兵4名を取り囲み、殴打・暴行を加えた。


■大須事件(昭和27年・1952 年7月7日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%A0%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6
大須球場で、ソ連・中国を訪問帰国した帆足計・宮越喜助両代議士の歓迎報告会終了後、日本共産党系の名古屋大学生に煽動された旧朝連系を含む約1000人が無届デモを敢行した。

岩井通りをデモ行進しながら、警官隊に硫酸瓶・火炎瓶を投げ、警察放送車、民間乗用車を燃やしたり、交番詰所に火炎瓶を投げ込んだ。

そのため、遂に警官隊側が発砲する騒乱事件となった。

夜になっても、騒乱の現場から少し離れた鶴舞公園で、駐留軍軍用車を焼いたり、名古屋東税務署に火炎瓶を投げ込んだ。

その結果、デモ側は死亡1名、重軽傷者19名を出した。

名古屋地方検察庁及び名古屋市警察はこの事件を重視し、261名(その内朝連系145名)を検挙した。


大須事件(おおすじけん)とは、1952年(昭和27年)7月に
愛知県名古屋市中区大須で発生した公安事件

事件の発端
中華人民共和国の北京で、日中貿易協定の調印式に臨んだ日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が帰国し、1952年7月6日(日曜日)に名古屋駅に到着した。
両代議士の歓迎のために約1000人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。
その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。

事件の概要
1952年7月7日(月曜日)当日、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させた。
午後2時頃から、会場の大須球場(名古屋スポーツセンターの敷地にかつて存在した球場)に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。
午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約1000人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。
警察の放送車が解散するよう何度も警告すると、デモ隊は放送車に向かって火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、デモ隊は四方に分散して波状的に火炎瓶攻撃を行うなど大須地区は大混乱に陥った。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する別働隊の事件も発生している。
この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。
名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人(その内、半数以上が在日朝鮮人)を検挙した。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたことが判明した。



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