(動画)回天特別攻撃隊

(動画)回天特別攻撃隊

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(追記)
回天特別攻撃隊菊水隊


人間魚雷回天

(追記ここまで)


回天特別攻撃隊の殉國の諸先輩方の鉢巻きに書かれている
「七生報國」(しちしょうほうこく)の由来。

1336年5月25日(現在の暦では7月12日)、楠木正成(くすのき まさしげ)公は、手兵700で会下山に陣を取りました。

主力の新田軍は和田岬に陣を敷いて足利方の海上軍に備えましたが、敵の策略のために、大楠公の軍と分断されてしまいました。

 この日、楠木正成公は天下の逆賊・足利高氏の弟、直義の大軍と16度にわたる激しい合戦を交えますが、大軍の前には、さすがの楠木軍も善戦虚しく、味方はわずか73人にまでになってしまいます。

もはやこれまでと覚悟された楠木正成公は、弟の正季(まさすえ)卿らご一族と

「七生報國」(七度生まれて國に報いる・朝敵を滅ぼす)

を誓って殉節され、その偉大な生涯を閉じられました。

後醍醐天皇のため、またよりよい国づくりのために力を尽くされたご生涯でした。

そのような楠木正成公の忠義を讃えるために、明治天皇様のご沙汰により、湊川神社が創建されました。

(湊川神社のHPより引用 編集)

楠木正成公の御墓(水戸光圀公が建立、現在の湊川神社境内に鎮座)を維新の志士が拝し、明治維新を成し遂げられました。

湊川神社の「大楠ご墓所」の説明

 元禄五年(一六九二年)、水戸光圀公(義公)は、家臣佐々介三郎宗淳(助さん)をこの地に遣わして碑石を建て、光圀公みずから表面の「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字を書き、裏面には明の遺臣朱舜水の作った賛文を岡村元春に書かせて、これに刻ませました。この墓碑の建立によって大楠公のご盛徳は大いに宣揚されるとともに、幕末勤王思想の発展を助け、明治維新への力強い精神的指導力となったのです。すなわち幕末から維新にかけて、頼山陽・吉田松陰・真木保臣・三条実美・坂本龍馬・高杉晋作・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文等々は、みなこの墓前にぬかづいて報国の至誠を誓い、国事に奔走したのです。

http://www.minatogawajinja.or.jp/guidance07.html

「吉田松陰先生」

私は、かつて東方へ遊行し、三度も湊川を通ったが、そのさい、楠公の墓に参拝し、涙が落ちるのをとめることができなかった。その碑の背面に、明の朱舜水が書いた文を読んで、また涙した。(『日本の名著・吉田松陰』中央公論社) 

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フォト:「回天基地」 大津島(おおづしま)
http://mixi.jp/view_album.pl?id=4092861&owner_id=7790496


「回天特別攻撃隊 大津島基地」

・周南市回天記念館 山口県周南市大津島1960番地 電話0834-85-2310

・周南市立養浩館(資料館) 館長 高松 工(たくみ)
周南市大津島1960 電話0834-85-2030

大津島http://www.kanko-shunan.com/html/ootujima/ootujima.html#kiti
大津島巡航(新時刻表・運賃)http://www.kanko-shunan.com/html/ootujima/ootusimadia.pdf


回天特別攻撃隊の慰霊祭は11月の第二日曜日

養浩館は旧士官宿舎跡にある。

映画「出口のない海」のモデルは和田 稔 回天烈士(静岡県出身、中尉、予備学生4期・東京大、光基地、戦没海域・光基地沖訓練中、戦没年月日・昭和20年7月25日、戦没年齢・23歳)

仁科関夫中尉(菊水隊 昭和20年11月20日ウルシー環礁にて散華)は小学校は光の室積(むろずみ)で中学は大阪の天王寺中。

父は室積女子師範(現・山口大学教育学部)の校長、母は中学の教師。

仁科中尉の幼少時を知っている人は養浩館に来て仁科中尉の事を「おぼっちゃま」と言う。

黒木大尉は気性が荒い。仁科中尉は柔和な性格。

短刀伝達式http://video.mixi.jp/view_video.pl?video_id=745328&owner_id=7790496(mixi動画)は今の回天記念館の前で行われた。

菊水隊などの名前は隊員達が自分達で決めた。

回天隊員は吉田松陰先生を崇拝していた。

平成10年に回天記念館は回天顕彰会の運営から市の直轄運営に変わった。

養浩館は回天顕彰会の運営で旧士官宿舎跡にある。

「平和教育に則って説明をしてくれ」との市からの要請に「自分なりの説明の仕方がある。」という事で元館長の高松 工 氏は30年務めた回天記念館館長を止めた。

以前は大きな軍艦旗(大東亜戦争当時より)を回天記念館に掲げていたが、市の直轄運営になってからダメになって、現在は日章旗が掲げられている。

回天慰霊祭の時は現在も慰霊という事で軍艦旗を掲げる。

以前は一年おきに神式、仏式で慰霊祭を執り行っていたが、現在は献花のみの慰霊祭となっている。

(上記は養浩館に40年務めている女性の方の説明)

回天隊員は全て志願で、当時の若者が國難を何とかしなければならないとの救國の至情に駆られての行動であった。菊水隊の何人かは同期である(菊水隊の写真を指して、名前を言ってました)。(養浩館館長 高松 工 氏 85歳(平成19年8月現在)談)

ここでも文部科学省・市の教育委員会の戦後自虐史観に基づく施策の影響が顕著に現れているように思えた。

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批判続出 人間魚雷キューピー
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